70年代台湾のジャポニスム印象
ジャポニスム(Japonism)元々は19世紀の万国博覧会をきっかけに、ヨーロッパに影響して、ヨーロッパの芸術にも日本のスタイルが見られる。印象が深い画家はモネ、ゴッホの作品に見られる。
私の故郷台湾にも特別なジャポニスムがある。複雑な地理関係と政治関係で台湾の文化は日本の影響が深い。30代の私は子供からずっと祖父と祖母の日本統治時代のことをよく聞いた。1895年から1945年までは「日本時代」と呼ばれている。日本統治下の台湾に生まれた祖父の時代は大正時代だが、昭和時代を経て、90歳以上の彼が「日本時代」のこと、使うもの、本、音楽という日本っぽい事物を良く教えてもらった。私にとっても、台湾人にとっても、ジャポニスムがもっと深い意味がある。それは祖父の時代からよく言われた「日本精神」だと思う。ジャポニスムは物にしか表現しないものではなく、礼儀作法、考え方、正直で約束を守ることなど全部が日本精神だと思う。子供から祖母が私にきちんと教えてもらったのは小さいことでもきちんとするのは「日本精神」である。だからレポートについて、ずっと書きたかったのは私の人生の中に、子供の時の日本のイメージである。
画報:
http://ppt.cc/s7ozG
画像1、画像引用:台湾の秋惠文庫(台北)台湾砂糖販売のポスター。
http://ppt.cc/uDjBm
画像2、画像引用:台湾の秋惠文庫(台北)台湾砂糖販売のポスター。
http://ppt.cc/4D3dx
画像3、画像引用:北海道札幌でビール販売の宣伝ポスターである。
私が子供の頃の祖父祖母は一番最初の日本コンタクトである。その時に祖父祖母は台湾語と日本語で混ぜて喋っていた。その当時、台湾政府は「中国語」(北京語)の政策をとっていたが、祖父祖母にとって北京語は難しかった。この間に祖父祖母は日本時代を懐かしいかどうか分からないが、子供の頃の思い出には、祖父の本、新聞、蓄音器で使ったレコードのカーバーなどの品はこのスタイルの画像がよく載っていた。この画報(画像1、画像2)は台湾の砂糖メーカーの宣伝用ポスターである。25年前のレコードジャケットで画像1と画像2(上に参照)のような和服姿の女性の画像を見た時に、それは日本スタイルと思った。台湾の歴史、政治など自分は全然分からなかったが、こういうイメージは私の生活の中に自然に視覚の習慣になった。大人になってから、これらは日本っぽいことだと分かってきた。画像3(日本の札サッポロビールのポスター)と比べたら、私は画像1、2は日本時代の足跡が残ったいることが分かる。現在、日本の昭和時代の建築、画報スタイルを見たら、台湾での自分の子供時代をすぐに思い出す。
画像4のイラストは日本時代の台湾中部の台中のお弁当の包装紙である。お弁当という日本語と台湾語の弁当の漢字が非常に似ている。こういう風なイラストは私にとって日本を感じさせるものである。なぜ「御弁当」ということを言ったのは日本語を勉強してから、日本語の御弁当と台湾語の御弁当の漢字、発音全部同じことを驚いた。今台湾の7-11というコンビニも「御弁当」を売っている。子供時代に祖父祖母も「弁当」よく喋っていた。今そのことを思い出して、それは日本の影響かと分かりました。
画像5は日本時代のイラストを描いたはがきである。画像6は30年前の台湾のマッチ箱である。2つのイラストを比べると、フォント、イラストの感じがとても似ている。日本統治は50年のジャポニスムの影響がこれからも続いていくと思う。
画像5、引用:台湾の珍しいものオックションで、米、牛、糖のはがきを売っている。
http://ppt.cc/vaRtR
画像6、台湾30年前のマッチ箱
野球の影響:
戦前、私の祖父が小学校から、日本人の指導を受け少年野球チームの選手になった。台湾全土の市町村の少年野球の試合に祖父のチームは勝ち、彼も金賞をもらった。その経験が祖父をずっとテレビで野球中継を夢中にさせる理由だと思う。日本時代の野球が祖父に与えた影響は、私には計り知れない。野球は日本時代の彼らには重要な夢だと聞いて私は驚いた。2014年2月27日に台湾で映画「KANO」という台湾の少年野球チームが甲子園に試合を出場する映画が上映された。来年2015年1月25日に日本でも上映される 。
映画「KANO」ポスター。
「KANO」日本語版サイト:http://kano1931.com/
文学:
台湾の文学者陳芳明は「有楽町で逢いましょう」を書いた文章を読んだ。今彼は67歳である。彼と私のお父さんの年齢を近い。「有楽町で逢いましょう」は日本の歌だが、この歌は陳芳明のお父さん(私の祖父の年齢)はよく歌った。だから陳芳明は「有楽町で逢いましょう」という文章を書いた。台湾の歌の中に、日本の地名が出たが、行ったことないのによく知っている。陳芳明の父は日本時代の教育を受け、戦敗以降、台湾で仕事を昼から夜まで頑張っていた。
陳芳明は国民党の教育を受けて、その教育は日本時代を否定する教育と言われた。だから陳芳明は若い時の父の複雑な気持ちが分からない。厳しい父は重苦しい音で「有楽町で逢いましょう」をよく歌っていた。その時、陳芳明は歌詞の意味が分からないが、父は自分の傷口を癒し、重苦しい情緒を緩和することができた。その父の世代は日本時代の教育と戦争の足跡が心に残っている。しかしその気持ちを持って生きて行くのは難しいのかもしれない。日本時代を懐かしみ、戦後の真実を受けいれるのかもしれない。その歌詞は私の父と祖父の気持ちを完全に表現した。 私は最初に有楽町、銀座などという街の名を祖父からよく聞いた。私は実際に有楽町に行ってから、祖父もここに来たという気持ちを時代を通して分かった。
以上が私の世代のジャポニスムである。
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